遠距離介護が始まった…

突然起こった親の介護問題。なにもかも初めてで手探り状態ながらも、自分なりのスタイルを模索している実践記

父が永眠するまでを振り返る。。。

久しぶりにこのブログにログインしました。

振り返ると2017年の8月から書き出したこのブログ、
父の認知症がドンドン進んできて今まで通りの生活を続けられるのか。。。
と不安になってきた頃でした。
ブログをはじめてから約3年も経ったんだねぇ。。。

2020年10月についに父が永眠しました。

ブログが途切れた2019年からこれまでのことを振り返ってみようと思う。
次から次へと事態が展開していき、私自身がそれについて行けなかった。
そしてなによりブログを書く気力も無くなっていた。
あちこちにメモしたり、書き留めたりしていたけど、
それらがバラバラになってすっかり忘れてしまう前に
記憶を辿ってまとめておこう。

変化のはじまりは2019年6月

2019年6月、施設への入所が決まった矢先に父が心臓発作で緊急入院。
主治医もケアマネさんも施設スタッフさんも
今回は、もうダメだろうということで、
用意してくれた施設への入所は他の人へ譲ることにした。

2019年7月

でも、父は奇跡のV字回復!
発作から1ヵ月後の2019年7月には退院。
結局入所予定だった施設へ入所させてもらうことができた。

母のひとり暮らしもこのころからスタートしたんだ。
父のために借りていた介護ベットを返却して、
ガランと広くなったリビングが寂しかったな。。。。

夜中にトイレに行くときに、
階段の上り下りが難しくなってきたこと。
トイレまでたどり着けなくなっていた。
なので、寝室を、
それまで使っていた2階から
1階のリビングに移動したのだ。

2019年8月〜年末

父が施設に入所してからは、
母は毎月か隔週、私は2〜3ヵ月に1度面会に行く。
父はもう私のことはわからないみたいだった。
でも、母のことはわかる時があるようで、たまに母の声に反応していた。

8月はじめには、お墓の掃除のために福井へ。

今思えばこの頃は、それなりに生活も安定していたように思う。
父の容態は常に心配だったけど、
施設で十分な介護を受けているし、容態が急変しそうな気配もなかった。
私は、母がさびしくないように時々会いに行って、
あちこち出かけたり、買い物したり、楽しく過ごすようにしていた。
毎朝6時の母からの電話も日課となり、朝のおしゃべりの時間がどんどん長くなっていた。
11月には母が大阪の私のところに滞在。一緒に文楽を見に行った。

2020年1月〜2月。コロナ騒動勃発。

2019年の年末は福井で母と過ごし、
「来年はもっと頻繁に福井に行って母と過ごそう!」
と思っていた矢先、2020年2月ごろからコロナ騒動が勃発。
私から感染させるといけないので福井行きを見送る日々。

2020年3月 父の容態が少しずつ悪化し始める

2020年3月14日、先週から父の容態が思わしくない。
熱が下がらないので、施設の契約医へ診察に連れて行ってくれるとの連絡あり。
事態は急を要さないので、福井行きは見送り。

2020年4月

4月8日コロナ緊急事態宣言発令。
母からも「しばらく来ないで。。。」と言われ、
ますます福井に行けなくなってしまった。

このころから母がだんだん暗くなってくる。
父の話もしなくなってきた。。。
感染させるかもしれない。。。と思うと、福井へ行くこともできず、
電話で話しをして、衣服や食べ物などを母に送る日々。
そうこうしているうちに初夏になった。

2020年7月

7月21日、母が施設に行って父と久しぶりに面会する日。
私は施設の担当者と電話で話して、父の看取りについて確認。
・無理な延命はしない。
・食事が食べられなくなったらイロウはしない。
・最後の看取り期になっても家に戻さず、施設でお願いする。

面会した母によると、父は元気そうだとのこと。
母と会ってももうわからないようだけど「機嫌良くいい顔してるよ」と。

2020年8月

8月はじめ、義兄の夏休みに姉夫婦が母と私をホテルに招待してくれた。
さすがに福井の家には行けなかったけど、母とはほぼ半年ぶりに会えた!
姉夫婦、母、私の4人で温泉旅館に宿泊して
豪華なディナーを一緒にいただき、
母はとても幸せそうだった。
なので、母の誕生日プレゼントと称して、
豪華なお部屋でゆったり温泉に入っておいしい夕食をいただけるプランを予約。
10月はじめに母と2人で行くことにした。
GoToトラベルのおかげで最上級のお部屋を半額で手配できて、超ラッキー!

8月11日、母と分家にあたるS子さんとでお墓の掃除をするとのこと。
毎年私が手伝っていたけど、今年はコロナで福井の家までは行けず。。。
このS子さん、村のスピーカーでなんかやかとうるさいけれども、
手伝ってくれるのはありがたい。

2020年9月 変化の兆し

9月3日、施設の担当者から母に電話。
父の足の床ずれがなかなか治らないので、
一度血流の状態を検査して治療方法を再検討してみたいとのこと。
検査をするかしないかを決めて欲しいと言ってきた。
父はかなり体力も落ちているし、検査しても治療に耐えられるかもわからない。
でも、検査せずに足が腐ってしまうのも怖い。
姉にも相談し、ネットでも調べまくって、散々悩んだけど、
検査だけでもかなり体力を要するので、
無理はさせないことに決断。
翌日、施設へその旨を伝える。

なのに。。。。

9月5日、父の容態が悪化し、県立病院へ緊急搬送されたとのこと。
その前日、父の具合がよくないので近くのK病院に連れて行ったところ、
ペースメーカーが入っているので診察できないといわれ、
診察してもらえずに施設まで引き返したとのこと。
これって身勝手な診療拒否じゃないか!!
施設から病院まで移動するだけでも大変な労力を使うのに。。。
以前、県立病院から転院したときは受け入れたくせに、どういうこと!!
K病院に対して不信感と腹立たしさが募った。

誤嚥するので施設では食事がたべられない状態が続いていたし、
少し発熱も続いて容態が悪化したため、
県立病院へ救急扱いで搬送することにしたそう。
県立病院での診察の結果、軽い肺炎を起こしているとのこと。
そのまま県立病院へ入院することになったと
施設のスタッフが知らせてくれた。

翌朝、入院手続きのため福井に行く。
母に駅まで迎えに来てもらい、一緒に県立病院へ。
入院手続き後、母とランチ。
その後、スーパーで買い物をして、
母に駅まで送ってもらい、私はそのまま大阪へ帰った。
久しぶりに会った父は、痩せ細り、骨と皮だけになっていた。
筋肉も痩せてしまって。。。。
でも、モゾモゾとよく動いている。
声をかけても反応はない。
母が声をかけると、一度だけ、頷いた。


9月17日、叔父さんの7回忌の引き出物を買うために福井へ。
このときも福井の家には寄らずに、母にJRの駅まで迎えに来てもらい、
母と一緒に引き出物を調達してから、父のところへ面会に行った。
県立病院の入り口では、なかり厳重なチェックをしていて、
事情を説明して担当の先生の許可をもらってようやく父のいる病室へ。

久しぶりに会った父は、さらに痩せて小さくなったように見えた。
もう本当に骨と皮ばかりになっていたし、
膝はギュッとヘアピンみたいに曲がったまま固まってしまっているらしい。
ベッドで足を伸ばすこともできない。
仰向けに寝るときは膝を立てて、枕やクッションで曲がった足が倒れないように支えている。
股関節も固まっているので、足を広げることもできない。
床ずれが酷く、特に右足の親指の付け根あたりが重傷で、
化膿して一部が腐ってきているそう。
傷口が塞がらず、骨が見えてしまっているらしい。
傷口の組織が回復しないので、肉が少しずつ剥がれている状態だそう。
このままいくと指が落ちてしまうかも。。。と言っていた。
また、心不全のお薬を大量に服用しているが、
自力で飲み込むことができなくなると、このお薬も飲めなくなる。
そうなると血流が悪くなり血栓もできやすくなるため、
心臓発作の危険性が高くなるらしい。
床ずれで傷口のあるところからばい菌がはいって化膿。
複数のばい菌が悪さをしているらしいことから抗生剤を点滴で投与。
そのおかげで肺炎と傷口の化膿が収まっているらしい。

さらに腎臓の機能も低下しているとのこと。
誤嚥するので食事は鼻からの注入を行っている。
ただ、手はよく動かすので、
チューブをはずさないようにベッドに固定ベルトで固定。
父は口を大きく開けて少し苦しそうに息をしていた。
声をかけても誰だかはわからないようだ。

「満身創痍」と言うコトバがふさわしいと思った。

全身ボロボロになりながら必死で戦っている。
生きようとしている。
楽になっていいよ。。。。
そう思う反面、戦い続けたいのかな、それが本心なのかなとも思う。
ずっと何かと戦ってきた人生、途中で投げ出したりしないよね。
やっぱり戦い続けたいよね。
それは、ツラいことではない? 苦しくない? 
誰かに止めて欲しい、早く終わらせたいと思っていない?

胸が締め付けられるように悲しくて苦しい。
こんな日が来るなんて。

 

9月25日の夕方、母から電話。
県立病院から電話があって、
遺漏の処置をするかしないか決めて欲しいとのこと。
母に決断させるのはつらいだろうなと思って、
姉に電話して相談した。
私も姉も遺漏には反対。
もう、ゆっくりしてもらおうって。。。
決めたけど、やっぱり。。。苦しい。

県立病院にその旨を伝えた。
担当の先生は、転院先を手配するので、
あとは点滴の投与だけになります。。。。って

2020年10月 看取りへ。。。そして急変

10月1日、父の転院。
最後を看取ってくれる病院だそうだ。
そのまま自然と体力が弱っていくらしい。
だいだい2週間くらい、長く持っても1ヵ月と言われた。
翌日からは、母がとても楽しみにしていた温泉行きなのに。。。

朝一番で福井へ向かい、県立病院へ。
福井に向かう車窓から綺麗な虹が見えた。父を守ってくれているようだった。

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県立病院ではすでにナースステーション前で
看護師さんとストレッチャーに乗った父がスタンバっていて、
私たちが到着するやいなや慌ただしく移動を開始。
これで父と会えるのも最後となる。。。
介護タクシーのドライバーさんに家族も同乗できるかきくと、

「どうぞ」といってくれたので、

母に同乗してもらうことにした。
私は母から入院費用を預かり、
支払いを済ませて、乗ってきた車でA病院へ向かう。

私がA病院に到着すると、
ちょうど入り口で父がストレッチャーに乗せられて
病棟へ移動するところだった。
チラッとだけ父の姿が見えた。
病棟に移動すると、もう直接父と会うことはできない。
最後の最後の看取りのときだけ、
家族がひとりだけ付き添うことができるという。
本当は耳元で、
「お父さん、ありがとう。感謝してます」
って言いたかったけど、心の中で、たくさん思ったよ。
本当に、本当に、お父さん、ありがとう。

 

10月12日のお昼頃、親戚のおじさんから、父が亡くなったからすぐ戻るようにと電話をもうらう。その数時間前の母からの電話ではそうは言ってなかったけど。。。。
姉にも連絡して「おかしいねぇ、そうは言ってなかったけど。。。どうなっているのだろう」と言いつつも、私はすぐに福井へ向かった。

福井の家に着くと、母が近所の人達に囲まれて座っていた。病院からの電話を父の死亡の知らせだと勘違いしてご近所さんに連絡して、それを聞いた村の人が車でA病院まで遺体を引き取りにいったところ、父はまだ存命だったとのこと。母はすごく恥じ入っていて、かわいそうなくらい。近所の村の人達も「おかあさんを攻めたらダメよ」と気遣ってくれる。

動揺している母を残して大阪に戻れないので、そのまま福井に留まることにした。

翌日、10月13日にA病院から面会にきてもいいよと連絡があった。その日のできごとは鮮明に覚えている。
母は病院のスタッフさんに連れられてひとりで父の病室へ。
待っている私は、看護師さんの機転で、スマホを使ったリモート面会をすることができた。
A病院のスタッフに感謝!


さらにその翌日の10月14日、容態が落ち着いていそうだったので、
ゆっくり福井に滞在するために、1日だけ大阪に戻ることにした。
片付けなきゃいかない仕事や用事をすませるためだ。


なのに。。。。

 

その日の深夜3時ごろ、A病院から電話。
父の容態が急変したので、すぐに病院まできて欲しいという。
「私は今大阪です。すぐにといわれても、最短でも明日の朝10時ごろにしか行けません」というと「そんな余裕はない」との返事。近くに親族はいないのかと。
母がいるけど、夜中にひとりで車を運転して病院までは行けそうにない。

 

どうしよう。。。。
よりによってこんなタイミングで。。。。
大阪になんか戻らなければよかった。。。

 

頭の中がグルグル。。。そうだ!タクシーを使おう!
片っ端から地元のタクシー会社に電話。
温泉観光地が近くにあったことから
24時間営業のタクシー会社が見つかった。
よかったーーーーー!

タクシーを福井の家へ向かわせ、急いで母に連絡。
明け方、母から電話。父が亡くなり、母は家に戻ったと。

10月15日、父が永眠しました。