遠距離介護が始まった…

突然起こった親の介護問題。なにもかも初めてで手探り状態ながらも、自分なりのスタイルを模索している実践記

母に会いたい

始まりは、去年の11月20日

いつものように母が入所している施設へ面会に行く。
母の部屋に飾ってもらうフラワーアレンジも忘れずに持参。

面会室まで車椅子にのせてもらった母がきて、ふたりだけで約15分話しができる。
施設のスタッフさんも、わざとゆっくりと「時間です」と伝えに来てくれる。
ほんのわずかな時間だけど、母と直接会って、
手を握って話しができる貴重な時間。
私にとっては何にも替えがたい大切な時間。

面会は7日おきという決まりがあるので、
次の面会まで田舎の家に滞在する。
1回の往復で母と2回面会ができるようにしている。
そして、月に1〜2往復、ほぼ毎週、
母と面会できるようにしていた。

いつもの面会から2日後、施設から電話。
母が発熱して、痰の量もスゴく多い、
施設の契約病院へ受診に行くと、誤嚥性肺炎とのこと。
そのまま入院となったという。
すぐに病院に向かい、入院手続きをした。

レンタルのペラペラな味気ないパジャマを着せるのは嫌だったので、いままで着用していた肌着やパジャマをそのまま使い、洗濯は私がすることにした。クリーニングってあまり信用してないから。入院中の面会は予約さえ取れば毎日でもOKだったので、このまま田舎の家に滞在して、毎日面会に行くことにした。私にできることって、それしか思いつかなかったから。
母は私だとわかるときもあるし、わからないときもあった。
でも、私だとわかったときは、すごく嬉しそうにニッコリしてくれて「また明日くるね」っていうと「うん、待ってる」って返事してくれた。その小さなやりとりが、ものすごく嬉しくて、わたしの気持ちを明るくしてくれたな。

誤嚥性肺炎の治療で抗生剤を点滴し、炎症も治まり、熱も下がってきたけど、強い薬の副作用で肝臓の数値が悪化。さらなる治療が必要になり入院が長引いた。

それでも、年が明けた1月11日にめでたく退院できた。
いつもの施設に戻ることができて、母もスタッフさんもとても喜んでいた。
退院時に立ち会い、母と話しができたけど、施設に戻ってから数日して落ち着いたら改めて面会に行こうと考えていた。あーよかった〜!これでひと安心。

施設の看護師さんから連絡があって、病院ではあまり衛生面をケアしてもらえなかったみたいで、手の指の付け根あたりがグジュグジュとただれている。水虫みたい。あと、手足のリハビリも充分ではなかったようで、拘縮がひどくなっているとのこと。もう、病院の看護師に対してすごく腹がたった。ちゃんと仕事しろ!!!!そういえば、車椅子の母が素足の時もあった。持ってきた靴下をはかせてあげたよ。どんな看護をしてるのか。洗濯のために持ち帰ったパジャマが酷く汚れていることもあった。胃瘻から溢れて付いた汚れみたいだった。血が付いているときも。本当に質の悪い環境。スタッフのレベルが低い。けれど、地域に病院は多くないから選べない。。。。

母の退院から数日後、面会予定の前日に施設から再び電話。

「スタッフにコロナ感染が出て、お母さんも感染した。
母たちが入所している建物全部を隔離。
部屋での投薬を開始する」とのこと。

もちろん、面会はキャンセル。

その後、ヤキモキしながら経過を待つ。
5日後、母の容態が悪化。
発熱と痰が出て苦しそうなので受診→即入院となった。

検査の結果は「誤嚥性肺炎」
両肺の2/3が壊れているそう。
酸素吸入と点滴の治療を開始するとのこと。

母のコロナ感染が陰性になったら面会もOKとのことで、経過を見守ることにした。

数日後、今度は病院でコロナ感染が起き、入院棟が封鎖に。
1月23日か24日に面会できるかも…といっていたのが、28日までは封鎖になってしまった。

どうあがいても面会はできそうにないので、
封鎖が解ける28日まで大阪に戻ることにした。
約2ヵ月間、郵便物や荷物はそのままになってるし、支払いが滞ってしまっているものもある(すぐ帰るつもりだったので、準備してなかった)

大阪に戻った翌日から田舎の家は大雪警報。
今日はサンダーバードも始発から運休してた。


今は母の容態が快方へ向かうことを、ひたすら願ってる。
あんな病院でひとりぽっちにしておきたくない!
できることなら一緒に病室で過ごしたい。

どうか、母が苦しい思いをしませんように。
病院で不快適な思いや嫌な思いをしませんように。

そして、また、あの優しい笑顔に会えますように。