遠距離介護が始まった…

突然起こった親の介護問題。なにもかも初めてで手探り状態ながらも、自分なりのスタイルを模索している実践記

父の葬儀から四十九日法要まで

父の葬儀の準備

2020年10月15日、父が永眠。

父を看取ってひとりで家に戻った母は、
気丈にも近所の人が起き出す時間になってから、
父が亡くなったことを知らせてくれていた。
私が福井の家に到着したときには、
近くに住む親戚が大勢家に上がりこんでいて、
男性陣は葬儀社のスタッフと葬儀の手配の相談を進めていた。
女性陣は台所で煮炊きものをしていた。
親戚といっても私にとってはほとんどが知らない人ばかり。
「初めまして。。。」と挨拶をすることからスタート。

検死解剖をお願いされる

葬儀社のスタッフと打ち合わせをすませたあと、
父の遺体を引き取るためにA病院へ。
病院の話しによると、父の容態はかなり急に悪化したようだった。
深夜の電話があったとにき
「検死解剖はしない」と病院側に伝えていたので、
そのまま連れて帰れると思っていたのだが、
父の担当医が
「父の急死が解せない。
死亡診断書に"老衰”と書く予定だったが、この状態では書けない。
死因をはっきりさせたい」
と言ってきた。
後学のためにも検死解剖させて欲しいというのだ。

検死解剖は、父の母校の大学で行うそうで、
医学部の学生のためにもご協力ください。。。とお願いされた。
父の母校に役立つなら父も本望だろうと、
母と相談して、申し出を受け入れることにした。

私たち親子を連れてきてくれた村の人にはいったん帰ってもらい、
私と母と2人で父の遺体と一緒に父の母校へ。
解剖が終わるまで別室で待機。
4時間〜5時間ほど待っただろうか。。。

待ちくたびれた頃に解剖が終了。
夕方になって父の遺体と一緒に福井の家へ送ってもらう。
解剖の結果、大腸から腫瘍がみつかり、
そこから出血していたため血便がでていたとのこと。
死因は”大腸がん”となった。
大学から家に戻る途中で、姉から電話。
姉もまもなく福井の家に到着すると。

母が大怪我

家に戻り、父を仏間に安置。
葬儀社の方が丁寧に寝かせてくれた。
前日から動きっぱなしの母に休んで欲しいけれど、母のベッドはリビングに置いてあり、人でいっぱい。ゆっくり休めそうにない。離れの私の部屋なら誰もこなくて静かなので、通夜の準備ができるまでそこで仮眠を取ってもらうことにした。

そこで、事件が。。。
仮眠をとった母が、起きあがるときに、ベッドから落ちて「ドスン!」と尻餅をついてしまった。ベッドから床までは50cmくらいの高さがあるので、かなりの衝撃だったと思う。後でわかったことだけれど、背骨を圧迫骨折する大怪我をしてしまったのだ。

その日は一晩中、お線香と蝋燭を絶やさないように、交代で番をする。
翌日、葬儀会場に移動して通夜を行う。
集まった人達は、それぞれ思い思いの場所に陣取って、
おしゃべりしたり、炊き出しの夕食をとったりしていた。

母はかなり痛そうだったが、
本人が「大丈夫」というので、
その夜は様子をみることにした。

一晩経っても痛みが取れないので、朝一番でK病院へ連れて行く。
たまたま従姉妹がK病院に務めていたので予約を取ってもらった。
レントゲンの結果、第七頸椎を圧迫骨折していた。

でも、通夜も葬儀も待っている。母は絶対に欠席したくない!と言う。
お医者さんに事情を説明して、痛み止めをだしてもらう。
「できるだけ動かないように!」との注意付きで。

葬儀の準備

10月16日の夜に葬儀会場で通夜をして、
翌日の10月17日の朝から葬儀となった。
葬儀の前日までに市役所へ行って
「火葬許可証」を発行してもらわなければならない。

16日の朝、母を病院へ連れて行っている時にクライアントから電話。
仕事関係の人には話すつもりはなかったけれど、
仕方なく事情を打ち明けて仕事を待ってもらう。

痛みで動けない母に変わって、
急きょ私が喪主をすることになった。
式場では、母には車椅子に座ってもらい、
できるだけ動かなくてもいいように手配した。

葬儀では、決めなければならないことが山ほどあって、
感傷にふけっている暇も無い。

まずは、病院の帰り道、
市役所によって「火葬許可証」を発行してもらう。

通夜

午前中に近所の人達がお参りにきてくれた。
16日の夕方に父を葬儀会場へ移動。
参列者は皆、後を追う。

お坊さんと役僧さんへの御布施やお礼、
引き出物の準備、会食のメニュー、
葬儀後の挨拶などなど
次から次へと用事ができる。
村の人達も率先して協力してくれた。

葬儀

10月17日午前10時から葬儀開始。
葬儀の日、私の仕事関係の仲間から弔電が届いていた。
送ってくれた面々の顔を思い浮かべると、
不安な気持ちがすこし温かくなった。
仲間に支えられていると思うと心強かった。
人のためにこんな風に動ける人ってステキだな。
私もそうなりたい!と思った。

葬儀が終わると、
そのまま火葬場へ。
点火のスイッチを私と姉と、手を重ねて押す。

1〜2時間過ぎた頃、遺骨を拾う。
骨箱は2つ。ひとつはお寺へ、もうひとつはお墓へ。
骨箱にお骨を入れたら、ひとつをお寺に納めに行く。
お寺へは親戚が10名ほど同行してくれた。
骨箱を渡して、お経をあげていただき、お礼を渡す。
もうひとつの骨箱を受け取って家に帰った。
これは初盆のときに、お墓にいれるという。
それまでは家の仏間においておく。

初七日

10月20日、初七日の法要のために
家までお寺さんにお越しいただく。
四十九日の法要まで毎週1回、
お経をあげていただかなければならない。

2回目 10月27日
3回目 11月4日
4回目 11月10日
初月忌 11月14日 ※初めての月命日
五七日 11月17日
6回目 11月25日
四十九日 12月5日
百箇日法要 翌年1月21日

四十九日の法要は「忌明け」という。
葬儀でお世話になった方々にお礼を兼ねて、会食でもてなすらしい。
お寺さんへのお礼は、一括して四十九日の法要の時に渡す決まりとのこと。

それまでの間、毎週福井⇔大阪を行ったり来たり。
怪我をして1人では生活できない母はショートステイで凌いでもらい、お経をいただく前日から2日間だけ帰宅して、私と一緒にお寺さんをお迎えすることにした。
クルマで母を介護施設に送っていき、駅前の駐車場に止めたままにして、大阪に戻る。福井へ行くときは、駐車場でクルマをピックアップして、母を迎えに介護施設へ行き、母と一緒に帰宅する。

お墓に名前を彫ってもらう手配、母の介護認定の変更手続き、父の保険証や市民税/県民税の支払い手続き、公共料金の名義変更、預貯金の相続手続き、香典返しの手配、弔電のお礼状などなど

手続きの嵐。。。。

あっという間に四十九日になっていた。

四十九日の法要

当日のお供えは、お菓子やフルーツ、そしてお花。
事前に飾っておく。
お菓子やフルーツは「お下がり」として参加者1家族に1袋とお寺さんに分けて配る。

お寺さんに渡すお礼の準備。
黄色い水引の袋を「御布施」として2つ、「御車料・御膳料」として1つ、合計3つ用意する。

お経をいただいた後、会食でもてなすためにレストランへ。
席順は、上座に遠い人、下座に身内をいう並び。
会食後、帰りに引き出物とつくっておいた「お下がり」を渡す。

今回は「新型コロナ渦」ということもあり、
会食は中止。参列者の招待もせず、母と私の2人で行うことにした。
参列予定の方々には引き出物だけ配送し、おもてなしする予定だった村人には引き出物と会食分のお食事券を配ることにした。
引き出物は一軒につき約5000円相当、お食事券も5000円相当のものを用意した。
引き出物はギフトショップから直接発送してもらい、お食事券は法事を終えて数日後に母が配って回った。

これでひとまず一段落。
あとは「百箇日法要」までひと休みとなった。