遠距離介護が始まった…

突然起こった親の介護問題。なにもかも初めてで手探り状態ながらも、自分なりのスタイルを模索している実践記

誰もが通る道だけど。。。まだまだ続いていきます。

まだまだ気持ちの整理がつかない

父が亡くなったとき、母も大怪我をしてしまい、
父に続いて、母まで同時に失ってしまうかも。。。
と感じたときの恐怖。喪失感。
本当に怖かった。

だからこそ、母との時間は大事にしたい。

でも、母の時間と私の時間の進むスピードが違いすぎて、
私はついて行けてない。
もっとゆっくり、もっとゆっくり!!と願うばかり。

誰もが通る道

気丈に独り暮らしで頑張ってくれる母。
村の人たちは、優しいときもあるけど、底意地の悪い時もあって、そのたびに母は傷つき、嫌な思いをしている。私が一緒に居ればいいのだろうけど、その勇気が持てずにいる。

私が大阪を引き払って、母とともに暮らすか、
母を大阪に引き取るか。。。。
どちらにしても、一緒に暮らすことを考えなければ。

父が存命だった頃は、
施設に父がいるというだけで、
今までの暮らしと何の変化もなかった。

今は。。。。

母はすっかり気弱になり、怪我をして動けなかったことがきっかけとなって何をするにも不安に感じて自信を失っている。
生きる希望や楽しみを見つけることができずにいる。
自分の居場所が、生きがいがないと思っているのだ。
あれこれご注進くださる人のコトバに影響されやすくなって、自己否定ばかり。
父の遺骨が家にある間はしっかり守らないとと思ってくれているようだけれど、遺骨をお墓にいれてたあとはどうなってしまうのだろう。。。。

私自身もフッと父のことを思い出して、胸が苦しくなる。
涙がツーッと流れてくる。
悲しいというよりは、喪失感・不安感・さみしさ。
ダメな自分が情けない。
そう思いながらもダラダラとやる気なく無為に過ごす日々。
人付き合いも面倒になって、引きこもりがち。
どんどん負のスパイラルになってる。。。

親を失うことは誰でもが通る道で、私の知っているあの人もこの人もみんなみんな体験済みなのに、元気に生き生きとされている。みんな、どうやって乗り切ったのだろう。。。
私はまだ胸に重い石をのせられたようにドヨ〜ンとしたまま、何もできずにいる。

単なる甘え。そういえばそうだ。
でも吹っ切ることができない。
乗り越えることができない。
どうしたらいいんだろう。

 

父の百箇日法要

葬儀から法要の予定

2020年10月15日父が他界。
 ↓
2020年12月5日 四十九日法要を行う。
 ↓
2021年1月21日 百箇日法要。
 ↓

【ここからは今後の予定】
・初盆 お墓へ納骨
・一周忌 2021年10月10日
・三回忌 2022年10月19日
・七回忌 2026年10月11日
・十三回忌 2032年10月10日
・十七回忌 2036年10月12日
・二十五回忌 2044年10月9日
・三十三回忌 2025年10月13日
・五十回忌 2069年10月13日

五十回忌を終えると、その後は法要はしないとのこと。
人が亡くなるってすごいことなんだと改めて実感した。

百箇日法要の準備

新型コロナ渦で、しかも緊急事態宣言の発令中に執り行うことになっている。
本来なら、近しい人をお招きして一緒にお経をいただくのだが、今回は無理。
私や姉が大阪から参加することすら危惧されている。。。
ご近所の親戚筋の方が『誰も参列できないときは私たちが行ってあげますよ』と声をかけてくれている。細かな心遣いに感謝!

県外の人と接触したら、経過期間を経てからでないと介護施設へは行けないのだ。
施設でクラスターが発生しないために必要な処置だけれど、
母ひとりで百箇日の法要をしてもらうには忍びない。
ご近所さんが駆けつけてくれても、心の中では寂しいだろう。
そこで、ケアマネさんに相談。
今回は私だけ大阪から来てもいいことになった。

姉には、お供えのお菓子とお花を手配してもらうことにした。
前日にお花が届き、仏間が一気に華やかになった。
さらにお供えとして小袋に入った豆菓子も多めに送ってくれた。
私と母は、当日の御布施を用意。
お寺さんに持って帰ってもらうためのお弁当も買っておくことにした。

百箇日法要

当日は仏壇に御膳やお花を飾り、お寺さん用の座布団を置く。
寒い日だったので、早めにストーブを付けて部屋をあたためておくことにした。

午後の4時ごろお寺さんがお見えになった。
母と私の2人でお出迎え。

特別なお経をいただき、お焼香をして法要完了。
参列できなかった姉のために、Facetimeライブ配信
家族3人一緒にお経をいただけた!
その後、客間へお寺さんをご案内して少し雑談。
午後6時ごろお帰りになった。

これでひとまず、一段落した。
訳のわからないまま、ひたすら突っ走ってきたけど、少しは落ち着いてきそうだ。
怒濤のような3ヵ月。
あとは、初盆の納骨と一周忌が待っている。。。

父の葬儀から四十九日法要まで

父の葬儀の準備

2020年10月15日、父が永眠。

父を看取ってひとりで家に戻った母は、
気丈にも近所の人が起き出す時間になってから、
父が亡くなったことを知らせてくれていた。
私が福井の家に到着したときには、
近くに住む親戚が大勢家に上がりこんでいて、
男性陣は葬儀社のスタッフと葬儀の手配の相談を進めていた。
女性陣は台所で煮炊きものをしていた。
親戚といっても私にとってはほとんどが知らない人ばかり。
「初めまして。。。」と挨拶をすることからスタート。

検死解剖をお願いされる

葬儀社のスタッフと打ち合わせをすませたあと、
父の遺体を引き取るためにA病院へ。
病院の話しによると、父の容態はかなり急に悪化したようだった。
深夜の電話があったとにき
「検死解剖はしない」と病院側に伝えていたので、
そのまま連れて帰れると思っていたのだが、
父の担当医が
「父の急死が解せない。
死亡診断書に"老衰”と書く予定だったが、この状態では書けない。
死因をはっきりさせたい」
と言ってきた。
後学のためにも検死解剖させて欲しいというのだ。

検死解剖は、父の母校の大学で行うそうで、
医学部の学生のためにもご協力ください。。。とお願いされた。
父の母校に役立つなら父も本望だろうと、
母と相談して、申し出を受け入れることにした。

私たち親子を連れてきてくれた村の人にはいったん帰ってもらい、
私と母と2人で父の遺体と一緒に父の母校へ。
解剖が終わるまで別室で待機。
4時間〜5時間ほど待っただろうか。。。

待ちくたびれた頃に解剖が終了。
夕方になって父の遺体と一緒に福井の家へ送ってもらう。
解剖の結果、大腸から腫瘍がみつかり、
そこから出血していたため血便がでていたとのこと。
死因は”大腸がん”となった。
大学から家に戻る途中で、姉から電話。
姉もまもなく福井の家に到着すると。

母が大怪我

家に戻り、父を仏間に安置。
葬儀社の方が丁寧に寝かせてくれた。
前日から動きっぱなしの母に休んで欲しいけれど、母のベッドはリビングに置いてあり、人でいっぱい。ゆっくり休めそうにない。離れの私の部屋なら誰もこなくて静かなので、通夜の準備ができるまでそこで仮眠を取ってもらうことにした。

そこで、事件が。。。
仮眠をとった母が、起きあがるときに、ベッドから落ちて「ドスン!」と尻餅をついてしまった。ベッドから床までは50cmくらいの高さがあるので、かなりの衝撃だったと思う。後でわかったことだけれど、背骨を圧迫骨折する大怪我をしてしまったのだ。

その日は一晩中、お線香と蝋燭を絶やさないように、交代で番をする。
翌日、葬儀会場に移動して通夜を行う。
集まった人達は、それぞれ思い思いの場所に陣取って、
おしゃべりしたり、炊き出しの夕食をとったりしていた。

母はかなり痛そうだったが、
本人が「大丈夫」というので、
その夜は様子をみることにした。

一晩経っても痛みが取れないので、朝一番でK病院へ連れて行く。
たまたま従姉妹がK病院に務めていたので予約を取ってもらった。
レントゲンの結果、第七頸椎を圧迫骨折していた。

でも、通夜も葬儀も待っている。母は絶対に欠席したくない!と言う。
お医者さんに事情を説明して、痛み止めをだしてもらう。
「できるだけ動かないように!」との注意付きで。

葬儀の準備

10月16日の夜に葬儀会場で通夜をして、
翌日の10月17日の朝から葬儀となった。
葬儀の前日までに市役所へ行って
「火葬許可証」を発行してもらわなければならない。

16日の朝、母を病院へ連れて行っている時にクライアントから電話。
仕事関係の人には話すつもりはなかったけれど、
仕方なく事情を打ち明けて仕事を待ってもらう。

痛みで動けない母に変わって、
急きょ私が喪主をすることになった。
式場では、母には車椅子に座ってもらい、
できるだけ動かなくてもいいように手配した。

葬儀では、決めなければならないことが山ほどあって、
感傷にふけっている暇も無い。

まずは、病院の帰り道、
市役所によって「火葬許可証」を発行してもらう。

通夜

午前中に近所の人達がお参りにきてくれた。
16日の夕方に父を葬儀会場へ移動。
参列者は皆、後を追う。

お坊さんと役僧さんへの御布施やお礼、
引き出物の準備、会食のメニュー、
葬儀後の挨拶などなど
次から次へと用事ができる。
村の人達も率先して協力してくれた。

葬儀

10月17日午前10時から葬儀開始。
葬儀の日、私の仕事関係の仲間から弔電が届いていた。
送ってくれた面々の顔を思い浮かべると、
不安な気持ちがすこし温かくなった。
仲間に支えられていると思うと心強かった。
人のためにこんな風に動ける人ってステキだな。
私もそうなりたい!と思った。

葬儀が終わると、
そのまま火葬場へ。
点火のスイッチを私と姉と、手を重ねて押す。

1〜2時間過ぎた頃、遺骨を拾う。
骨箱は2つ。ひとつはお寺へ、もうひとつはお墓へ。
骨箱にお骨を入れたら、ひとつをお寺に納めに行く。
お寺へは親戚が10名ほど同行してくれた。
骨箱を渡して、お経をあげていただき、お礼を渡す。
もうひとつの骨箱を受け取って家に帰った。
これは初盆のときに、お墓にいれるという。
それまでは家の仏間においておく。

初七日

10月20日、初七日の法要のために
家までお寺さんにお越しいただく。
四十九日の法要まで毎週1回、
お経をあげていただかなければならない。

2回目 10月27日
3回目 11月4日
4回目 11月10日
初月忌 11月14日 ※初めての月命日
五七日 11月17日
6回目 11月25日
四十九日 12月5日
百箇日法要 翌年1月21日

四十九日の法要は「忌明け」という。
葬儀でお世話になった方々にお礼を兼ねて、会食でもてなすらしい。
お寺さんへのお礼は、一括して四十九日の法要の時に渡す決まりとのこと。

それまでの間、毎週福井⇔大阪を行ったり来たり。
怪我をして1人では生活できない母はショートステイで凌いでもらい、お経をいただく前日から2日間だけ帰宅して、私と一緒にお寺さんをお迎えすることにした。
クルマで母を介護施設に送っていき、駅前の駐車場に止めたままにして、大阪に戻る。福井へ行くときは、駐車場でクルマをピックアップして、母を迎えに介護施設へ行き、母と一緒に帰宅する。

お墓に名前を彫ってもらう手配、母の介護認定の変更手続き、父の保険証や市民税/県民税の支払い手続き、公共料金の名義変更、預貯金の相続手続き、香典返しの手配、弔電のお礼状などなど

手続きの嵐。。。。

あっという間に四十九日になっていた。

四十九日の法要

当日のお供えは、お菓子やフルーツ、そしてお花。
事前に飾っておく。
お菓子やフルーツは「お下がり」として参加者1家族に1袋とお寺さんに分けて配る。

お寺さんに渡すお礼の準備。
黄色い水引の袋を「御布施」として2つ、「御車料・御膳料」として1つ、合計3つ用意する。

お経をいただいた後、会食でもてなすためにレストランへ。
席順は、上座に遠い人、下座に身内をいう並び。
会食後、帰りに引き出物とつくっておいた「お下がり」を渡す。

今回は「新型コロナ渦」ということもあり、
会食は中止。参列者の招待もせず、母と私の2人で行うことにした。
参列予定の方々には引き出物だけ配送し、おもてなしする予定だった村人には引き出物と会食分のお食事券を配ることにした。
引き出物は一軒につき約5000円相当、お食事券も5000円相当のものを用意した。
引き出物はギフトショップから直接発送してもらい、お食事券は法事を終えて数日後に母が配って回った。

これでひとまず一段落。
あとは「百箇日法要」までひと休みとなった。

 

父が永眠するまでを振り返る。。。

久しぶりにこのブログにログインしました。

振り返ると2017年の8月から書き出したこのブログ、
父の認知症がドンドン進んできて今まで通りの生活を続けられるのか。。。
と不安になってきた頃でした。
ブログをはじめてから約3年も経ったんだねぇ。。。

2020年10月についに父が永眠しました。

ブログが途切れた2019年からこれまでのことを振り返ってみようと思う。
次から次へと事態が展開していき、私自身がそれについて行けなかった。
そしてなによりブログを書く気力も無くなっていた。
あちこちにメモしたり、書き留めたりしていたけど、
それらがバラバラになってすっかり忘れてしまう前に
記憶を辿ってまとめておこう。

変化のはじまりは2019年6月

2019年6月、施設への入所が決まった矢先に父が心臓発作で緊急入院。
主治医もケアマネさんも施設スタッフさんも
今回は、もうダメだろうということで、
用意してくれた施設への入所は他の人へ譲ることにした。

2019年7月

でも、父は奇跡のV字回復!
発作から1ヵ月後の2019年7月には退院。
結局入所予定だった施設へ入所させてもらうことができた。

母のひとり暮らしもこのころからスタートしたんだ。
父のために借りていた介護ベットを返却して、
ガランと広くなったリビングが寂しかったな。。。。

夜中にトイレに行くときに、
階段の上り下りが難しくなってきたこと。
トイレまでたどり着けなくなっていた。
なので、寝室を、
それまで使っていた2階から
1階のリビングに移動したのだ。

2019年8月〜年末

父が施設に入所してからは、
母は毎月か隔週、私は2〜3ヵ月に1度面会に行く。
父はもう私のことはわからないみたいだった。
でも、母のことはわかる時があるようで、たまに母の声に反応していた。

8月はじめには、お墓の掃除のために福井へ。

今思えばこの頃は、それなりに生活も安定していたように思う。
父の容態は常に心配だったけど、
施設で十分な介護を受けているし、容態が急変しそうな気配もなかった。
私は、母がさびしくないように時々会いに行って、
あちこち出かけたり、買い物したり、楽しく過ごすようにしていた。
毎朝6時の母からの電話も日課となり、朝のおしゃべりの時間がどんどん長くなっていた。
11月には母が大阪の私のところに滞在。一緒に文楽を見に行った。

2020年1月〜2月。コロナ騒動勃発。

2019年の年末は福井で母と過ごし、
「来年はもっと頻繁に福井に行って母と過ごそう!」
と思っていた矢先、2020年2月ごろからコロナ騒動が勃発。
私から感染させるといけないので福井行きを見送る日々。

2020年3月 父の容態が少しずつ悪化し始める

2020年3月14日、先週から父の容態が思わしくない。
熱が下がらないので、施設の契約医へ診察に連れて行ってくれるとの連絡あり。
事態は急を要さないので、福井行きは見送り。

2020年4月

4月8日コロナ緊急事態宣言発令。
母からも「しばらく来ないで。。。」と言われ、
ますます福井に行けなくなってしまった。

このころから母がだんだん暗くなってくる。
父の話もしなくなってきた。。。
感染させるかもしれない。。。と思うと、福井へ行くこともできず、
電話で話しをして、衣服や食べ物などを母に送る日々。
そうこうしているうちに初夏になった。

2020年7月

7月21日、母が施設に行って父と久しぶりに面会する日。
私は施設の担当者と電話で話して、父の看取りについて確認。
・無理な延命はしない。
・食事が食べられなくなったらイロウはしない。
・最後の看取り期になっても家に戻さず、施設でお願いする。

面会した母によると、父は元気そうだとのこと。
母と会ってももうわからないようだけど「機嫌良くいい顔してるよ」と。

2020年8月

8月はじめ、義兄の夏休みに姉夫婦が母と私をホテルに招待してくれた。
さすがに福井の家には行けなかったけど、母とはほぼ半年ぶりに会えた!
姉夫婦、母、私の4人で温泉旅館に宿泊して
豪華なディナーを一緒にいただき、
母はとても幸せそうだった。
なので、母の誕生日プレゼントと称して、
豪華なお部屋でゆったり温泉に入っておいしい夕食をいただけるプランを予約。
10月はじめに母と2人で行くことにした。
GoToトラベルのおかげで最上級のお部屋を半額で手配できて、超ラッキー!

8月11日、母と分家にあたるS子さんとでお墓の掃除をするとのこと。
毎年私が手伝っていたけど、今年はコロナで福井の家までは行けず。。。
このS子さん、村のスピーカーでなんかやかとうるさいけれども、
手伝ってくれるのはありがたい。

2020年9月 変化の兆し

9月3日、施設の担当者から母に電話。
父の足の床ずれがなかなか治らないので、
一度血流の状態を検査して治療方法を再検討してみたいとのこと。
検査をするかしないかを決めて欲しいと言ってきた。
父はかなり体力も落ちているし、検査しても治療に耐えられるかもわからない。
でも、検査せずに足が腐ってしまうのも怖い。
姉にも相談し、ネットでも調べまくって、散々悩んだけど、
検査だけでもかなり体力を要するので、
無理はさせないことに決断。
翌日、施設へその旨を伝える。

なのに。。。。

9月5日、父の容態が悪化し、県立病院へ緊急搬送されたとのこと。
その前日、父の具合がよくないので近くのK病院に連れて行ったところ、
ペースメーカーが入っているので診察できないといわれ、
診察してもらえずに施設まで引き返したとのこと。
これって身勝手な診療拒否じゃないか!!
施設から病院まで移動するだけでも大変な労力を使うのに。。。
以前、県立病院から転院したときは受け入れたくせに、どういうこと!!
K病院に対して不信感と腹立たしさが募った。

誤嚥するので施設では食事がたべられない状態が続いていたし、
少し発熱も続いて容態が悪化したため、
県立病院へ救急扱いで搬送することにしたそう。
県立病院での診察の結果、軽い肺炎を起こしているとのこと。
そのまま県立病院へ入院することになったと
施設のスタッフが知らせてくれた。

翌朝、入院手続きのため福井に行く。
母に駅まで迎えに来てもらい、一緒に県立病院へ。
入院手続き後、母とランチ。
その後、スーパーで買い物をして、
母に駅まで送ってもらい、私はそのまま大阪へ帰った。
久しぶりに会った父は、痩せ細り、骨と皮だけになっていた。
筋肉も痩せてしまって。。。。
でも、モゾモゾとよく動いている。
声をかけても反応はない。
母が声をかけると、一度だけ、頷いた。


9月17日、叔父さんの7回忌の引き出物を買うために福井へ。
このときも福井の家には寄らずに、母にJRの駅まで迎えに来てもらい、
母と一緒に引き出物を調達してから、父のところへ面会に行った。
県立病院の入り口では、なかり厳重なチェックをしていて、
事情を説明して担当の先生の許可をもらってようやく父のいる病室へ。

久しぶりに会った父は、さらに痩せて小さくなったように見えた。
もう本当に骨と皮ばかりになっていたし、
膝はギュッとヘアピンみたいに曲がったまま固まってしまっているらしい。
ベッドで足を伸ばすこともできない。
仰向けに寝るときは膝を立てて、枕やクッションで曲がった足が倒れないように支えている。
股関節も固まっているので、足を広げることもできない。
床ずれが酷く、特に右足の親指の付け根あたりが重傷で、
化膿して一部が腐ってきているそう。
傷口が塞がらず、骨が見えてしまっているらしい。
傷口の組織が回復しないので、肉が少しずつ剥がれている状態だそう。
このままいくと指が落ちてしまうかも。。。と言っていた。
また、心不全のお薬を大量に服用しているが、
自力で飲み込むことができなくなると、このお薬も飲めなくなる。
そうなると血流が悪くなり血栓もできやすくなるため、
心臓発作の危険性が高くなるらしい。
床ずれで傷口のあるところからばい菌がはいって化膿。
複数のばい菌が悪さをしているらしいことから抗生剤を点滴で投与。
そのおかげで肺炎と傷口の化膿が収まっているらしい。

さらに腎臓の機能も低下しているとのこと。
誤嚥するので食事は鼻からの注入を行っている。
ただ、手はよく動かすので、
チューブをはずさないようにベッドに固定ベルトで固定。
父は口を大きく開けて少し苦しそうに息をしていた。
声をかけても誰だかはわからないようだ。

「満身創痍」と言うコトバがふさわしいと思った。

全身ボロボロになりながら必死で戦っている。
生きようとしている。
楽になっていいよ。。。。
そう思う反面、戦い続けたいのかな、それが本心なのかなとも思う。
ずっと何かと戦ってきた人生、途中で投げ出したりしないよね。
やっぱり戦い続けたいよね。
それは、ツラいことではない? 苦しくない? 
誰かに止めて欲しい、早く終わらせたいと思っていない?

胸が締め付けられるように悲しくて苦しい。
こんな日が来るなんて。

 

9月25日の夕方、母から電話。
県立病院から電話があって、
遺漏の処置をするかしないか決めて欲しいとのこと。
母に決断させるのはつらいだろうなと思って、
姉に電話して相談した。
私も姉も遺漏には反対。
もう、ゆっくりしてもらおうって。。。
決めたけど、やっぱり。。。苦しい。

県立病院にその旨を伝えた。
担当の先生は、転院先を手配するので、
あとは点滴の投与だけになります。。。。って

2020年10月 看取りへ。。。そして急変

10月1日、父の転院。
最後を看取ってくれる病院だそうだ。
そのまま自然と体力が弱っていくらしい。
だいだい2週間くらい、長く持っても1ヵ月と言われた。
翌日からは、母がとても楽しみにしていた温泉行きなのに。。。

朝一番で福井へ向かい、県立病院へ。
福井に向かう車窓から綺麗な虹が見えた。父を守ってくれているようだった。

f:id:m_mima:20210201201444j:plain

県立病院ではすでにナースステーション前で
看護師さんとストレッチャーに乗った父がスタンバっていて、
私たちが到着するやいなや慌ただしく移動を開始。
これで父と会えるのも最後となる。。。
介護タクシーのドライバーさんに家族も同乗できるかきくと、

「どうぞ」といってくれたので、

母に同乗してもらうことにした。
私は母から入院費用を預かり、
支払いを済ませて、乗ってきた車でA病院へ向かう。

私がA病院に到着すると、
ちょうど入り口で父がストレッチャーに乗せられて
病棟へ移動するところだった。
チラッとだけ父の姿が見えた。
病棟に移動すると、もう直接父と会うことはできない。
最後の最後の看取りのときだけ、
家族がひとりだけ付き添うことができるという。
本当は耳元で、
「お父さん、ありがとう。感謝してます」
って言いたかったけど、心の中で、たくさん思ったよ。
本当に、本当に、お父さん、ありがとう。

 

10月12日のお昼頃、親戚のおじさんから、父が亡くなったからすぐ戻るようにと電話をもうらう。その数時間前の母からの電話ではそうは言ってなかったけど。。。。
姉にも連絡して「おかしいねぇ、そうは言ってなかったけど。。。どうなっているのだろう」と言いつつも、私はすぐに福井へ向かった。

福井の家に着くと、母が近所の人達に囲まれて座っていた。病院からの電話を父の死亡の知らせだと勘違いしてご近所さんに連絡して、それを聞いた村の人が車でA病院まで遺体を引き取りにいったところ、父はまだ存命だったとのこと。母はすごく恥じ入っていて、かわいそうなくらい。近所の村の人達も「おかあさんを攻めたらダメよ」と気遣ってくれる。

動揺している母を残して大阪に戻れないので、そのまま福井に留まることにした。

翌日、10月13日にA病院から面会にきてもいいよと連絡があった。その日のできごとは鮮明に覚えている。
母は病院のスタッフさんに連れられてひとりで父の病室へ。
待っている私は、看護師さんの機転で、スマホを使ったリモート面会をすることができた。
A病院のスタッフに感謝!


さらにその翌日の10月14日、容態が落ち着いていそうだったので、
ゆっくり福井に滞在するために、1日だけ大阪に戻ることにした。
片付けなきゃいかない仕事や用事をすませるためだ。


なのに。。。。

 

その日の深夜3時ごろ、A病院から電話。
父の容態が急変したので、すぐに病院まできて欲しいという。
「私は今大阪です。すぐにといわれても、最短でも明日の朝10時ごろにしか行けません」というと「そんな余裕はない」との返事。近くに親族はいないのかと。
母がいるけど、夜中にひとりで車を運転して病院までは行けそうにない。

 

どうしよう。。。。
よりによってこんなタイミングで。。。。
大阪になんか戻らなければよかった。。。

 

頭の中がグルグル。。。そうだ!タクシーを使おう!
片っ端から地元のタクシー会社に電話。
温泉観光地が近くにあったことから
24時間営業のタクシー会社が見つかった。
よかったーーーーー!

タクシーを福井の家へ向かわせ、急いで母に連絡。
明け方、母から電話。父が亡くなり、母は家に戻ったと。

10月15日、父が永眠しました。

母がだんだん暗くなっていく。。。

今朝も電話の声に元気がない。
母がポツリと

最近落ち込んじゃって。。。

 

朝早く、まだ外が暗いうちから目が覚めて、ベッドから起き上がる前にあれこれいろんな考えが浮かんでくるらしい。

あのときはああすればよかった。。。
なんで気がつかなかったんだろう。。。。
あれも足りない、これもできない、
ない、ない、ない!
自分は本当にダメな人間だ。。。
などなど

できていなこと、足りないと思ったことなどが次々と浮かんできて、
自分のダメさ加減に落ち込んでしまうと言う。

このまま放っておくとうつ病へまっしぐらって感じ。

励ましても気晴らしにはならないし、
「なんでも言ってスッキリして」とひたすら聞き役に回る。
でも、本当に心に浮かんだことは言いにくいみたいで、
「切り替えて、今日も頑張るわ!」
といってそのままになってしまった。

最近、同じようなことが多い。
「いつまで生きられるのかな」
「もう先は長くない」
「だんだん衰えて周りに迷惑をかけるのかな。。。」
「田舎の管理は大変で何もかもいらない」
「物忘れがひどくて本当にダメだ」などなど
気弱な発言も気がかりだ。
クヨクヨ病で、本当に病気にならなければいいけど。。。。

 

田舎の管理 竹藪問題

f:id:m_mima:20191011083307j:plain


田舎の里山の一部にあるウチの敷地。
そこに小さな竹藪があるらしいけど、
そこの竹が伸び放題で隣近所に進出していると、
近所の人からクレームが。。。

そこで、荒れた竹藪を整理することになった。

いつもお世話をしてくれる近所の親戚のおじさんが、森林組合に連絡してくれた。先週は、地権者の立ち会いのもとで伐採するエリアを特定する作業があった。今回は、ウチだけでなく、おじさんも大きくなった杉を切るらしい。もう一軒ご近所のかたが松の木をきってもらうとのこと。

重機や人手がかかるので、できるだけ安く仕上げるために、今回は3軒でまとめて依頼することになったという。

9月28日(土)の朝から立ち会いがあるので、前日の夜から福井へ帰省。
翌朝、問題の竹藪へ見に行った。
お墓へ行く道の途中にあって、確かに倒れた竹や木で荒れ果てた感じ。
お隣の人はいい気分しないなぁ。。。と思いましたわ。

ウチの地所を赤いビニール紐で囲って、伐採するエリアを確定。
普段なら絶対に足を踏み入れないような道なき道。
今回はおじさんや森林組合の人がいたので、勇気を振り絞ってに立ち入ってみた。

 

 これが山の入り口。中に人が入れるとは到底思えない。。。

f:id:m_mima:20191011082303j:plain

 

森林組合の人が赤い紐を持って伐採エリアを確定中。

f:id:m_mima:20191011082458j:plain

一通り見分がおわったので、森林組合の人が、後日見積もりを出しますといって帰っていきました。
費用はどのくらいかかるのだろうか。。。
かなり不安。でも、やらないわけにはいかないし。。。

 

これはおまけ。おじさんがこれは「みょうが」だと教えてくれました。
私はずっと「熊ザサ」だと思ってた(汗)
夏になるとおいしく食べられるよだって。
来年の夏に獲りに来よう!

f:id:m_mima:20191011082327j:plain

 

で、数日後。

10月10日(木)またまた森林組合の人が現場を見に来たらしい。
母の話によると、前回とは別の人で、前日に見に行くから立ち会ってと電話があり10日の朝に母と組合の人の2人で一緒に見に行ったという。

赤いビニール紐を見ると、
「ああ、もうエリアを囲ってあるんやね」
といって、奥まで入らずサッと一目見て帰って行ったそう。

森林組合の人によると、
エリア内の一部は他の人の土地らしい。
木を運ぶにはそこの地権者の許可が必要になるそう。

えーーー、前回立ち会ったときは
そんな話しでてなかったのに。。。
何がどうなってるのかさっぱりわからん!!

まだ、見積もりも来てないし、
一体どうなってるんだろう???

プロパンガスの点検 つづき

昨日、母からの電話でプロパンガスの点検をしたことがわかった。
業者さんがきたら電話してって言ったのに、すっかり忘れてる。。。。

朝から家の外へでたり、中へ入ったり、結構時間がかかったらしい。
さすがに母も不安になってきたところに、近所の人が注文していた「麦とろ」という太いお素麺を届けに来てくれた。
「知らない人を家に入れたらダメよ!」とその人にも言われたらしい。
点検の業者さんが帰るまで、おしゃべりしながら一緒にいてくれた。

業者さんは、細長い伝票のようなものに「点検作業をしました」という印しに印鑑を押してくれといって、一部を母に、もう一方を持って帰ったとのこと。

「部品をいくつか交換したけれど、それはガス会社が支払うので、ユーザーさんの負担はありません。4年後にまた点検にきます。」

なんとか、無事だったな、とホッとする反面、私に電話をする約束を忘れてしまった母に対して不安も感じた。
なんでもかんでも言われたことをすぐに信じて相手に言われたとおりにしてしまう、こんな状態はやはり心配だ。


ここ数日、心が揺れて私自身も不安定。
本来なら、私が同居してすべて面倒をみるべきなんだけれども、そう簡単に生活のベースは動かせない。
ふがいない自分への自己嫌悪と「今まで何やってきたんだろう。。。」って後悔ばかり。奮い立たせようとしても、気持ちは沈む一方。。。

母は、おなかの調子が悪いらしく、なにか普段とは違う違和感を感じているみたい。今日はかかりつけの病院へ行くと言っていた。

時計の電池交換で立ち寄った眼鏡店で、目のチェックをしてもらい、店主からできるだけはやく眼科へ行った方がよいとアドバイスされたとも。

少しずつ、少しずつ、母の健康も不安定になっているんだと思うと、いたたまれない想いで胸が苦しくなる。
些細なことで悩んでいたちょっと前の脳天気な日々に戻れることはあるのかな。。。